【考察】グリーンマイル、その解釈であってますか?
グリーンマイルを別の角度から紐解く。
グリーンマイルを見て皆さんどう思われましたでしょうか?
「善人が死んで悲しい」「命は大切だ」
「死刑はやめるべき」「黒人差別はやめよう」
別にそれも間違いじゃないと思います。
けど、その意見。全く持って本随は其処ではありません。
この作品には宗教的側面があります。
Webに上がってるまとめ系、感想系がだいたい上の4つの意見で答えを出しているのは驚きました。
メインの解釈が万人に与えられていないのは些か残念なので一石投ずる気持ちで書いております。
この作品は、一言で言えばキリストの再臨です。
順を追って記載していこうと思いますが、
- 既に見ている人向け
- ネタバレ見ても別にこの映画見ないから問題ない人
向けに作っているのでこの映画に興味があるならこの先は読まないことをお勧めします。
0.雑なあらすじ
引用すると。
死刑囚舎房の看守ポールが、2人の少女を殺害した容疑で投獄された死刑囚ジョン・コーフィーが不思議な癒しの力を持っている事、冤罪である事に気づき、看守としての責務と道徳的なジレンマに直面する様子を描いた感動作。
らしい。なんかこの時点で的を射て無い気がする…
1.ジョン・コーフィーは何者か
まず、そもそも、この作品は、
死罪という重いテーマを扱っている中で異物として存在しているジョン・コーフィーの"癒しの力"に違和感を覚えるべきです。意味もなくこのようなフィクションの力をスティーヴン・キングが入れるはずがありません。
この"癒しの力"は結論から言えばイエスキリストと同じです。キリストは盲目の人間の目を直したり、12年間出血が止まらない女性の血を止めたりと超人的な"癒しの力"を持っていました。
fig1.盲人の目を直すイエスキリスト
また、ジョン・コーフィーは"癒しの力"のみでなく、ある程度先の現象を読む"先見の力"もありました。これもまた、イエスキリストも同じように魚が大量にとれる位置を見事に当てているという"先見の力"がありました。
fig2.魚がいる位置を言い当てるイエスキリスト
この力は神に愛されたキリストが人類を導く為に与えられた、言わば、人類への"救済の力"なのです。
これ程、酷似した2人の力をただの偶然と考えるのは無理があろうと思います。
ここから、2通りの考えが生まれます。
①ジョン・コーフィー=イエスキリスト
②ジョン・コーフィー=擬似イエスキリスト
①はジョン・コーフィーは聖書に出てくるイエスキリスト本人であった場合
②はもし、現代にイエスキリストのような存在がいたらというifの話をするための擬似的な存在
この2つの可能性に対して、
ジョン・コーフィーが電気椅子に括られ、死ぬ前に
殺された2人の娘の父が「2人の娘のために2度死ね」と言ったのが、①②のどちらで考えるべきかを読み解くヒントになるなと思いました。
当然、この世の生き物は1度しか死ねません。
しかし、イエスキリストがジョン・コーフィーならば2度死ぬことができます。
キリストは一度、十字架に磔にされて死に、その3日後復活しました。その後、彼は昇天(死と昇天は別)と言って空に召され、今でも空からキリスト教徒を見守っているそうです。そして、来たる最後の審判の日にこの地上に再臨され善人には永遠の命を、罪人には地獄と判決を下すそうです。
この事から、もしジョン・コーフィー=イエスキリストのなら文字通り磔による死で1度、電気椅子による死で2度死ぬことになります。
それだけでは根拠として薄いだろと思うかもしれませんが、実は先程申し上げた善人には永遠の命を与えると言う話が正に、ポールが長生きするのに当てはまるのです。3年の寿命のネズミが少なくとも64年間生きている事から単純に計算するとポールは軽く1000年は生きる事になります。
この事からもやはりジョン・コーフィー=イエスキリストと言うのは間違いない気がします。
2.ジョン・コーフィーの死が意味する事
fig3.電気椅子によるジョン・コーフィーの死
彼の死は一体なんの意味があったのでしょうか?
ジョン・コーフィーと言う善人が冤罪で死ぬのはおかしい、社会の不条理を描いていて考えさせられる映画だった。
と言う感想をよく見るんですけど、今一度
よく思い出して欲しいところです。
ジョン・コーフィーは自ら望んで死んだんです。
彼は死ぬ前にポールに向けてこんな事を言っていました。
俺は雨の中のスズメのような一人旅に疲れた。
旅を共にする友達もなく、どこからどこへ、何故彷徨うのかもわからない。
酷い事をしあう人間達にも疲れた。毎日、世界中で起こってる苦しみを感じたり聞いたりするのにも疲れた。もう耐えられない。
文だけで既にジョン・コーフィーが生きる事を、
誰かを救う事を諦め切っているのが伝わってきます。
ですので、彼の死は冤罪によって訪れたのでなく、自分自身に救済を与えるために訪れたのです。
つまり、彼にとっては死が"救済の力"でした。
fig4.全てを諦めたジョン・コーフィー
そして、彼の死は私達にも意味をもたらします。
それは私達がこの先、やるせない、どうしようもないら何もすることができない、神に祈る事しか出来ない、そんな状況でも、祈ってもなんの意味もないと言う事です。
彼の死が、つまりは、神の子が救う事を諦めたと言う事実がそれを明言したのです。
ジョン・コーフィー、つまり再臨したキリストはこの時代の世の救いの無さに、無力感に苛まれ、挙句死を選んでしまいました。例え、神の子でも人間の欲や非道的な部分に当てられれ続ければ、ただの人間と同じ次元に成り下がると言う事実が非常に重いです。
更には、死ぬ前の最後の台詞が
「生まれた事を謝ります。」には
もう、本当に何も救いがない様に感じました。
宗教に馴染みがない日本人にとっては大したことありませんが、なんらかの宗教を信じる者には酷な映画だと思います。
3.結果的に何が言いたい映画だったのか
結局、ジョン・コーフィーがイエスキリストだからなんだったんだ?ジョン・コーフィーが救済を諦めて死んだからなんなんだ?
となるかもしれませんが、要は
「良くも悪くも神様を信じずに生きていこう」
と言う事だと思います。
では、なぜか?
それは、ポールが最後に語ってくれました。
人は誰しも自分のグリーンマイルを歩いているのだと思う。われわれは誰もが、死を迎える。
例外はない。
タイトルにもありますグリーンマイルは物語序盤に、ラストマイル(死刑囚が牢屋から電気椅子に向かうまでの道)をその道の床が緑である事からグリーンマイルと言っていると言う話がありました。しかし、この引用でのグリーンマイルは単純に訪れる死という意味です。
私達はただグリーンマイルを進んでいきます。
死は必ず訪れるからです。
しかし、大事なのはその道中何をするかです。
やるせ無い、どうする事が出来ない事が起きても、神に頼るのではなく、同じグリーンマイルを歩くもの同士助け合って生きていけばいいわけです。
4.最後に
結局、こんな風に書いても広大なネットの波に飲まれて人の目に映ることはないんやと思うと少し残念ですが、まぁ、自己満足的には納得いったのでいいです。できれば、映画の考察の楽しみを誰か1人にでもわかってくれたら幸いです。
ちょっとWebに的を射ていない解釈が多すぎたので思わず書いてしまいました。
ですが、確かに他の死刑囚達からは確かに死刑制度ってどうなの?とか命は大切とかって言うメッセージももちろんあると思いますが、やはり個人的にそれはこの作品の彩りであって本筋では無いんじゃないかなぁと思います
他に、同じような解釈してるなと思ったのを貼っときます。
1.大体の人が持ちそうな疑問に答えています
グリーンマイル | あの映画のココがわからない まとめサイト | Fandom
2.宗教的側面にしっかり触れています
これは僕が言った②のジョン・コーフィー=擬似イエスキリストの方で考えてる。こう言う考えも非常に納得がいくと思います。
個人的にポール=ロンギヌスは違う気がしますが。
ロンギヌスはイエスキリストが死んだかを槍で確認しただけであって実際には手を下してないので。